涼夏は、今までとは違う動揺を見せて、僕から必死で逃げようとする。
僕はその手をつかんで、押さえつけた。
涼夏は、震えていた。

「嫌、やだ」
「涼夏、落ち着いて」
「離して、あたしは…」
「どうしたの？」
「あたしは…」
「何が嫌なの？」

涼夏は、僕の目をまっすぐ見つめて言った。

――あたし、日常が、恐い。

あたしの日常は、あの高校で走っている瞬間だった。
辛くて倒れそうで、それなのにあたしは一生懸命走っていた。
大嫌いだった走ることが、あたしの全てになっていた。
嫌いな人間に負けないように、意固地になって。
馬鹿みたいに必死になってたんだ。
それで汗まみれの気持ち悪いからだで家に帰る。
シャワーを浴びたころに帰ってくる母さん。
あたしより汗まみれで走りこんでくる遼一。
食事の準備をしているころに帰ってくる父さん。
みんなで食卓について、箸でつつきあうそば。
今日の話とか、クラスメートの愚痴とか、他愛ない話で笑う。
そんな瞬間が、あたしの日常。
なくす前からとても大切だった。
なくしてからはもっといとおしかった。
心がよじれてゆがんで膨らんで、いとおしくていとおしくて死にたかった。


「あたしは、もうこれ以上こんな思いしたくない」

傷だらけの汚いあたしの足をなめて。
大好きな潤んだ瞳を見せて。
もっともっとあたしのために泣いて。
そうして、ほおをつねる。
あたしの、今の、日常。

「あたしはもう、この日常をなくす痛みを増やしたくない」

研二といる、この瞬間をなくしたくないの。
あたしの日常なの。

涼夏は、そう言って泣いていた。
心底怯えて、震えて、泣いていた。
僕の胸が熱くなる、ぎゅっと縮まって、大きく大きく膨らんでいく。
僕は涼夏を起こして座らせた。
涼夏は自分の指をそっとくわえて震えている。
そして、涼夏の隣に座って、くっついて言った。

「僕は君の前から消えたりしないよ」
「そんなのわかんない」

涼夏は悲しいほど鋭い目で言った。

「あたし、こんなにひどいことばっかしてんだよ」
「涼夏」
「あたし、被害者ぶってるだけなんだよ」
「思い出して」

涼夏のくわえていた手をとって、なめる。
涼夏がこっちを向いた。

「僕は君の犬なんだよ」

涼夏は泣いた顔のまま、笑ってくれた。
自然で、純粋な、涼夏の笑顔。
そうして僕の頭に手を伸ばして抱きしめてくれた。

僕はまだ知らない。
涼夏の、奥底の思いを。

NEXT?