僕は涼夏の手を握って離さなかった。
涼夏は珍しく抵抗する様子を見せない。
少し震えてるみたいだ。

「涼夏は、汚い人間じゃないよ」

僕は知っている。
君の苦しみ、君の悲しみ。
人間の想像を絶するような我が家に帰った君の眼を。
サバイバー ――生き残りの名を背負っている細い肩を。
君を不幸のどん底に落とした原因を。
僕は知っている。

「涼夏は、橋本さんを守りたかったんでしょ?」

不器用で飾り気のないその手で。
君ははじめての友達を、不幸の軌道の中に入れたくなかったんだ。
君のまわりで不幸に会う人が多すぎて、そう思ってしまったんだね。
そんな君に、もっともっと触れていたい。

「涼夏の気持ち、僕はもっと知りたいよ」
「研二」

涼夏はそっと僕の肩に頭を垂れた。
ちょっとだけ重くて、ちょっとだけ硬くて。

「研二」


その細い肩が震えて、僕は動けなかった。
涼夏はそっと僕の首に手を回す。
その鮮やかな動きにだまされて、僕は動けなかった。

「研二」

僕は涼夏を抱きしめた。
涼夏はまだ震えながら、僕の胸でちいさくなっていた。
彼女が少女であることを、全身で感じた。
涼夏のからだは、あたたかかった。

「涼夏」

シャンプーのにおいがかわいい。
そんな不謹慎なことを頭の隅で思いながら、僕は涼夏をもっと抱きしめる。
涼夏の部屋の風鈴が、涼しい音を立てた。



夕方は少しずつ消え塀を乗り越えるとき、涼夏は僕に言った。
君はもうあたしの犬じゃないよねと。
僕は何も言わなかった。
涼夏は少しだけ困った顔をしたけど、そのあと手を振った。
人間を見送るときみたいに。

「ばいばい、研二」
「うん」
「また来て」
「うん」
「もう、足はなめないでいいから」

僕は何も言わなかった。
涼夏は少しだけ穏やかな表情で部屋に帰っていった。

自転車に乗り、ぬるい風に吹かれながら音楽を聴く。
涼夏が聞いている曲を調べて、僕も買ったのだ。
男のボーカルがあたたかさと繊細さで、不思議な詩を歌う。
僕の胸に、涼夏の震えた感触がよみがえる。
―――これで、よかったんだ。

僕は自転車をとめて、川原に降りた。
草むらの下のコンクリートに座り込んで、かばんの中身を出す。
涼夏に貸したTシャツと短パン、きれいにたたまれている。
洗濯するなっていうから、選択しなかったよ。
話のあとの、澄んだ涼夏の声が耳の奥で聞こえた。
―――これで、よかったんだ。

僕はそっと顔をうずめた。
抱きしめたときの、涼夏のにおいが脳内に広がった。
でも僕が思い浮かべたのは、僕を踏みつけたときの涼夏の姿だった。

何かが、ねじれているのかもしれない。

NEXT?