僕は涼夏の手を握って離さなかった。
涼夏は珍しく抵抗する様子を見せない。
少し震えてるみたいだ。
「涼夏は、汚い人間じゃないよ」
僕は知っている。
君の苦しみ、君の悲しみ。
人間の想像を絶するような我が家に帰った君の眼を。
サバイバー ――生き残りの名を背負っている細い肩を。
君を不幸のどん底に落とした原因を。
僕は知っている。
「涼夏は、橋本さんを守りたかったんでしょ?」
不器用で飾り気のないその手で。
君ははじめての友達を、不幸の軌道の中に入れたくなかったんだ。
君のまわりで不幸に会う人が多すぎて、そう思ってしまったんだね。
そんな君に、もっともっと触れていたい。
「涼夏の気持ち、僕はもっと知りたいよ」
「研二」
涼夏はそっと僕の肩に頭を垂れた。
ちょっとだけ重くて、ちょっとだけ硬くて。
「研二」
その細い肩が震えて、僕は動けなかった。
涼夏はそっと僕の首に手を回す。
その鮮やかな動きにだまされて、僕は動けなかった。
「研二」
僕は涼夏を抱きしめた。
涼夏はまだ震えながら、僕の胸でちいさくなっていた。
彼女が少女であることを、全身で感じた。
涼夏のからだは、あたたかかった。
「涼夏」
シャンプーのにおいがかわいい。
そんな不謹慎なことを頭の隅で思いながら、僕は涼夏をもっと抱きしめる。
涼夏の部屋の風鈴が、涼しい音を立てた。
*
夕方は少しずつ消え塀を乗り越えるとき、涼夏は僕に言った。
君はもうあたしの犬じゃないよねと。
僕は何も言わなかった。
涼夏は少しだけ困った顔をしたけど、そのあと手を振った。
人間を見送るときみたいに。
「ばいばい、研二」
「うん」
「また来て」
「うん」
「もう、足はなめないでいいから」
僕は何も言わなかった。
涼夏は少しだけ穏やかな表情で部屋に帰っていった。
自転車に乗り、ぬるい風に吹かれながら音楽を聴く。
涼夏が聞いている曲を調べて、僕も買ったのだ。
男のボーカルがあたたかさと繊細さで、不思議な詩を歌う。
僕の胸に、涼夏の震えた感触がよみがえる。
―――これで、よかったんだ。
僕は自転車をとめて、川原に降りた。
草むらの下のコンクリートに座り込んで、かばんの中身を出す。
涼夏に貸したTシャツと短パン、きれいにたたまれている。
洗濯するなっていうから、選択しなかったよ。
話のあとの、澄んだ涼夏の声が耳の奥で聞こえた。
―――これで、よかったんだ。
僕はそっと顔をうずめた。
抱きしめたときの、涼夏のにおいが脳内に広がった。
でも僕が思い浮かべたのは、僕を踏みつけたときの涼夏の姿だった。
何かが、ねじれているのかもしれない。
NEXT?