「本当に信じていいんだね」

あたしは、もう一度だけそう聞いて、研二のほおをつねった。
研二はされるがままの自分のほおに文句も言わずにうなづいた。
あたしは、続きを話すことに決めた。
結構な決心だった、ひざと胸が震えた。

ある日の部活、それはとても暑い日だった。
部活の終わりに、あたしは橋本奈々とふたり、みんなの前で褒められた。
それが部員を滅多に褒めない北村里織だったのだ。
舞い上がっている自分を抑えながら、あたしは少し早足で帰る。
大好きな川原を、涼しい風が吹いていた。

あたしはこの日の全てをずっと忘れない。

家に帰る頃には蒸し暑い部屋にも冷房がついているかな。
弟の遼一は学校から帰って、昨日ふたりで買いに行ったシャーベットでも食べてるかな。
あいつあたしが好きないちごミルクは残しておいてくれてるかな。
遼一は、あたしにとって普通に会話のできる男友達みたいなものだった。
そんな甘い想像をしながら、玄関を開ける。

カチャッ

あたしは鍵をいれて回したはずなのに、ドアは無反応だった。
遼一め、鍵を閉め忘れたな。
今日はとうさんもかあさんもいるはずなのに、誰も気づかなかったか。
あたしは思い切りドアを開ける。

甘いにおいがした。

―― あたしはある種のにおいに敏感だった。
ドアを開けると、玄関に置いてある靴がばらばらだった。
きれい好きのかあさんには珍しいことだ。
―― あたしはそのにおいで、遼一の面倒をを早急に見ることができた。
部屋の奥で、白いレースのカーテンが大きくなびいている。
冷房つけているのに、どうして窓が開けっ放しなの。
――あたしはたいてい、それのおかげで自らの欠陥に気づいた。

部屋は乱雑に散った本がぱらぱらと音を立ててめくれていた。
それが白い蝶々のようだった。
部屋中で「動」がうごめいているのに「動」であるはずのものが沈黙の「静」を保っていた。

遼一の部屋から無造作に出た右手には、ひとかけらの「動」も残っていなかった。

あたしの敏感なにおい、それは ―――血のにおいだった。

「あたしは無意識のまま、電話ボックスにかけこんで、携帯で警察に電話した」

研二が黙ったまま動かないのが良かった。
あたしは震えてた、この忌まわしい記憶をたどっている。
言葉に出してたどったのは、警察の取調べのときだけだった。
警察では冷静に話せたと思う、刑事さんもびっくりしてた。

それからの記憶はとってもぼやけている。
あたしは三人の遺影を選んで、葬儀の人か何かに渡した。
それはちょうど去年のクリスマス、ケーキを囲んだ三人をとった写真。
こんなことに使うことになるなんて、カメラの後ろのあたしは、全く思っていなかった。
そう思ったとき、はじめて涙が出た。

それ以来、あたしは通夜も葬式も泣かなかった。

「それからあたしは変わった」
「……」
「あたしは、はじめてあたしに近づいてきた橋本奈々を遠ざけた」

あの手この手を使って、奈々をいじめぬいた。
それでも食らいつく奈々を、さらに陰湿な手でいじめぬいた。
奈々は悲しい顔をしながら、あたしの言うこと全て受け入れた。
それがまた、あたしには耐え難い苦痛だった。

「…どうして?」
「え…」
「どうして、つらかったの?」

研二の目は澄んでいて、あたしを真っ直ぐとらえた。
あたしはあわてた、答えをみつけられなかった。
見つけようともしなかった。

「あたしが…あたしが、汚い人間だったから」

あたしは目を閉じた。
あたしはあらゆる汚い手を使った。
それはもういない両親や遼一には、決して見せたくない姿だった。
汚すぎた。

ふいに研二の手があたしの手を握る。

「それは、違うよ」

研二の手は、あたたかった。

NEXT?