「手紙を書いてたの」
涼夏の話はそこからはじまった。
中学時代、彼女はバトンに全てを費やした。
この1本の棒で表現される数々の技に、彼女は魅了される。
基本練習から応用まで、必死で必死でやり続けた。
しかし涼夏が合格したのは、バトン部のない学校だった。
涼夏の家は決して裕福すぎる家庭ではなかった。
塾に通う費用も、今までの部費も、両親の工面のお陰だった。
レベルはそれなりの都会郊外の有名公立高校で、両親の出身校。
無愛想な涼夏が、せめてもの恩返しにと入学したのだった。
入学した涼夏は唖然とする。
両親の母校は、やる気も夢も希望もない、現代の高校生の溜まり場となっていた。
どうしてもやるせない涼夏は、自らが1番苦手としていた陸上部への入部を決める。
自分をいじめぬくと決めた、涼夏らしい決断だった。
筋トレも柔軟も基礎練習も、苦手なものも得意なものも、全てにおいて全力投球。
毎日黙って、ただ走るだけ走る。
いつしかついてきた結果は、彼女を部内エースの座に君臨させた。
同学年の部員達は、ストイックな彼女を遠巻きに見るだけだった。
ちらちらと顔色を伺っては、陰口を生きがいにする親に寄生する虫。
そんな同級生の雰囲気が嫌で、涼夏は偽名を名乗った。
クラタスズカ ――彼女は最後までリョウカを名乗り続けた。
涼夏が特に忌み嫌っていた同級生がいた。
桂亜美 ―――努力しなくても、たいていのことが平均以上にできる同級生。
努力をしないでも自慢するに値する結果を記録する桂亜美。
たとえ彼女の記録を抜かしても、少しでも差が詰まると涼夏は驚愕した。
家が裕福であるのに、家の愚痴ばかり言っているのは1番の嫌悪の対象だった。
そしていつも、ふたりの友人とともにいる。
孤高を貫き通した涼夏にはないものだった。
そしていつも涼夏の前にいる先輩がいた。
北村里織 ―――努力したながらも、さらに上を見続ける人。
性格もよく、学力も高く、家はさらに裕福で、全てにおいて完璧な先輩。
彼女の記録を超えたことはなく、涼夏はいつも必死で彼女に食らいついて走る。
そんな自分がどうしようもなくて、涼夏は先輩を恨みながらもいつしか崇めていた。
桂亜美は、涼夏が手に入れたくても手に入れられないものを、いつだってゴミみたいに扱った。
北村里織は、涼夏が手に入れたいものを全て持ちながら、さらに高みを目指していた。
それがどうしても、許せなかった。
ある日突然、涼夏の走る後ろに誰かが現れ始める。
桂亜美のふたりの友人のひとり ――橋本奈々だった。
いつももじもじしていて、記録も伸び悩みの、涼夏の視界には入っていなかった同級生。
その彼女がいつしか、自分に食らいつくように追いかけてくるのだ。
その差は決して狭くなく、涼夏はいつも奈々の足音を感じた。
電車ではじめて会話してから、奈々と涼夏の距離は唐突に縮まりだした。
涼夏の無愛想な言葉に、一生懸命答えてくる奈々は、涼夏には新鮮だった。
だから色々なことを教えてやった、奈々は喜んだ。
その喜ぶ顔がまた新鮮で、涼夏は少しずつ変わっていく。
「その橋本奈々に手紙を書いてたの」
涼夏はそこまで話すと一息ついてそう言った。
涼夏の目が、少しだけぼんやりしている。
自分の記憶をこうやってたどるのが、涼夏には苦痛そうだった。
「橋本さんとは、仲いいんだ」
僕がそう言うと、涼夏はちょっと笑った。
そして僕のほおをつねる。
「まさか」
「でも、手紙かいてたんでしょ」
「そうだよ」
「やっぱり仲いいんでしょ」
「違う」
きっぱりとそう言った涼夏の顔を覗き込む。
涼夏は悲しそうに笑っていた。
「あたし、黙ってきちゃったのよ」
「え…?」
「転校すること一切伝えずに、黙ってきちゃったの」
「…どうして」
「あたし、あの子をもう傷つけたくなかったんだ」
涼夏は僕のほおをもう一度、弱くつねった。
NEXT?