とうとつに立ち上がった涼夏は、僕の顔を少しだけ押した。
帰るよと、ひとことつぶやいて自転車にまたがる。
僕はそれを黙ってみている。

「この服、今度返す」
「うん」
「連絡先教えてよ」

僕は涼夏に自分の携帯の番号を教えた。
涼夏はそれをメモする。

「涼夏の電話番号は?」
「寮の電話だから、君には教えられない」
「わかった」
「あたしがかけるとき留守だったら怒るから」
「うん、絶対出るよ」
「当たり前」

だって君、あたしの犬だもんね。
その、少し軽蔑したみたいな言い方が僕の羞恥心を揺さぶる。
涼夏はそんなことおかまいなしに自転車の方向を変えた。

「涼夏」
「何」
「その服、洗濯しないで返して」
「あ、そう それはありがたいわ」
「うん」
「あ、おばあちゃんのおはぎ頂戴」
「うん」

「連絡するから」
「待ってる」

涼夏はふりかえらずに自転車を走らせた。
僕は川原にひとり残される。
午後の日差しが、少しずつ落ちている。



僕は携帯の画面を見ては、また閉じる。
あれから6時間、いまだに連絡はない。
ばあちゃんが冷麦ができたというので階段を下りて居間に向かう。

「今日の子は誰だい?」
「倉田涼夏だよ、ばあちゃん」
「あぁそうだったそうだった、都会の子だねぇ」
「うん」

冷麦はつるつると僕ののどを伝う。
きれいな水でつくったつゆのこのおいしさを、涼夏は知っているかな。
今すぐ届けてあげたい。

「あの子のこと知ってたのかい?」
「まぁ」
「あの子はちょっときつそうだね、研ちゃんの趣味はああいうのなのかい?」
「そういうわけじゃ…」
「研ちゃん照れてるわ」

さっさと食べ終わって僕は食器を片付ける。
ばあちゃんはまだゆっくりと食べている。
涼夏からの電話がなったのはそのときだった。

「もしもし」
「研二、今すぐ出れるよね」
「え?」
「いい、唐北女子の寮わかるよね」
「…うん」
「そこの裏に来て」
「ちょっと、涼夏は平気なの?」
「うるさい、いいから来て」

突如きられた電話の勢いに、僕は驚く。
身勝手な涼夏の声。
普通の男なら、こんなことされたらどうするのかな。
芳にいだったらきっと殴るかも。

「ばあちゃん、僕ちょっとでかけてくる」
「あんたはいっつも突然だねぇ」

僕は自転車に乗って、走りだす。

寮の前まで全速力で走らせて、今更瞠目した。
ここは女子寮だ、僕がこんなところにいたらどういいわけできる?
そんな不快な焦りを伴いながらも、僕は裏へまわる。
明かりのついた窓が近くに見える。
ここに、涼夏が住んでいる。
そう思ったら、いつしかうれしいばかりだった。

ふと腕をつかまれて木と木の間にひきこまれる。
心臓をわしづかみされたみたいな恐ろしさが身を奪った。
でも、その声で僕はただの犬になる。

「研二」

涼夏は、僕のTシャツと短パンを着たまま僕の後ろから現れた。
密着する腕は汗でぴったりくっついてしまう。

「君、気持ち悪い 汗かいてる」
「僕は涼夏の汗なら全然かまわない」
「馬鹿 あたしは犬の汗なんてごめんだわ」
「それで、どうしたの?」

返事がないから、驚いてふりかえる。
涼夏は無言になって、そこに突っ立っていた。

「あたしは…」

涼夏の目が、少しだけ焦点を失った。



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