あたしが投げたビーチサンダルは高く飛んだ。
それは安っぽくて、大きな空には不釣合いだった。

研二はそれをぼんやり目で追う。
そしてあたしを一瞥すると、のろのろと歩き出した。
研二はそれをしゃがみこんでつかんだ。
――― 本当に取りに行った、あの人。

「倉田さん」
「持ってきて」
「うん」
「それと、犬は主人を名前で呼ぶべき」
「…どうして?」
「それは…」
「どうして?」
「うるさい、早く取ってきて」
「うん、涼夏」

あたしはまさか言えなかった。
ちいさいときに読んだ童話のイメージだなんて。
だってあたしは研二の主人だから。

研二はあたしのそばまできて、立ち止まる。
どうしたらいいのかと、もじもじしている。
だからあたしは言ってやった。

「はかせて、研二」
「…うん」

研二はうつむきかげんであたしの足元にしゃがみこむ。
そしてさっきみたいに足を持ち上げる。
あたしの素足にするすると、サンダルを滑らせる。

あたしはその足を思い切り振り上げる。
ビーチサンダルは、川に落ちた。

「あ…」

研二はそのビーチサンダルを目で追いながらそう言った。
あたしは無言のまま、研二の手をはらいのける。

「取って来て、研二」



そっちを指差して、言う。
研二はあたしの方をゆっくりふりかえった。
あたしはかたくなに指差して、研二の目を見る。
研二の目は、やっぱり澄んでいるのに、ぼんやりとしている。

研二はまたのろのろと立ち上がる。
そうしてなんの躊躇もなく、川へと進んでいった。
ズボンのすそが濡れるのも気にしないで。

じゃぶじゃぶじゃぶ

研二の足が、水流にまかれながら進んでく。
水草にひっかかったビーチサンダルをつかむ。
そうしてまたふりかえる。

じゃぶじゃぶじゃぶ

唖然としているあたしをよそに、研二は同じスピードで戻ってくる。
そうして同じようにあたしの足を持ち上げる。
するするとサンダルを滑らせて。

「研二」
「何?」
「君、本当になんの躊躇も疑問も持たないの?」
「うん」
「嫌だとか思わないの?」
「うん」
「…どうして」
「だって僕は、君の犬だから」

研二は本当に、この馬鹿みたいなやりとりに浮かされている。
あたしの一挙手一投足で、研二は変わる。

「研二」

あたしは無意識に、研二の頭をなでる。
研二はちょっとも動かない。
あたしは、そのさらさらの黒髪をなでつづける。

「研二、いい子」

あたしは研二の顔をひきあげた。
研二の目は、嬉しそうに潤んでいる。
そうして浮かされたみたいな声で、あたしの足にくっついて言ったのだ。

「…はじめて褒められた」
「うん」
「うれしい…僕は涼夏の犬だから」

そう言って、少し笑った。
その瞬間あたしの中で、何かが変わった。



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