びしょびしょの少年は平然と自転車をこいでいる。
あたしは唖然としながらも、その軽やかな足を追う。
これはいつか、あの学校で走っていたときの快感に似ている。
今はただ、苦痛でしかないのだけれど。

ついた家は、田舎のおうち、という感じの古びた日本家屋だった。
縁側にはおばあちゃんが座っていた。
あたしが会釈すると、おばあちゃんはにこにこした。
あたしのおばあちゃんは小学校のときに亡くなった。
だからなんだか、とても懐かしい気がして鼻の奥がつんとした。
自転車をとめた少年がもじもじしながら手招きした。

「この子が東京から来た子かい?」
「うん、ばあちゃんおはぎ頂戴」
「おー、そうだった、あんたが食べたい言ってたからねぇ」

よちよちと歩いて部屋の中へ入っていく。
あたしはそのうしろ姿を黙ってみていた。

「あがって」
「…君さ、大事なこと忘れてない」
「え?」
「君の名前、あたしは知らないんだけど」

一瞬ぽけーっとした表情になって、少年はあわてた。
こいつずいぶんとトロい気がする。
田舎の子っていうのはそういうものなんだろうか。
不思議と腹は立たないのだけど、他のものを感じる。
それはすごくどろどろしていて、言い表せないのだけれど。

「僕の名前…」
「そう、あたしの名前は知っているんだから教えるのが礼儀でしょ」
「そうだね」

少年はうつむきかげんで言った。

「僕の名前は、高橋研二」

そう言ってあたしを見た。
その澄んだ目がうるんでいるのに、あたしは心底どきっとした。
何でそんな感情を持ったのか分からなかったけど、あたしは苦しかった。
この痛みは、何なのだろう。
ごまかすように、言葉を発する。

「君のおばあちゃん、君がびしょびしょなのに何も言わないの」
「うん…よくこういうことするから…」

照れたみたいな顔をして、高橋君はあたしを家に上げた。
高橋君は、少し変わってるのかもしれない。


高橋君の部屋は、はじめてみる男の子の部屋だった。
それにしてはきれいな気がする、少なくともあたしの知ってる女達の部屋よりは。
学習机の上には、ちらばった文房具とウォークマン。
木のベッドには水色のチェックのタオルケットが無造作においてあった。
あたしはこの部屋に淡い好感を持つ。

「そこらへん座ってて、僕おはぎもらってくるから」
「それより君、着替えたら?」
「あ、そうだった、ごめん」

あわててたんすから洋服を出して部屋を出ようとしている。
あたしは何も考えずに止めた。

「ここで着替えればいいじゃない」
「…え?」
「だってここ君の部屋でしょ、あたしが外に出てる」
「いや、僕はお風呂場で着替えてくるから」
「気を使われたくないの、ただでさえおはぎいただくんだし」
「いいよ、そこ座っててよ」

あたしが立ち上がろうとするのを、高橋君はとめようとする。
あたしは無理に手をどけようとした。

「ちょ…っ」
「うわっ」

高橋君のぬれた手が滑って、あたしを押し倒した。

どすんと大きな音がして、高橋君の腕があたしをつかんだ。
その手は濡れているのにひどくあつかった。



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