雪弥の目は、深く低いところで留まった。
俺の方を見ているような、見ていないようなあいまいな目線。
その目はもう、どんなに堕ちてもやさしかった。
ラッキーがふいにほえる。
雨のあとの公園の土はやわらかく、どろどろしていた。

「あたし、途中から、気づいてましたよ」
「え?」
「あたし、はるいち君が鏡子さんの弟だって知ってました」

ねえさんの生まれた病院は、俺の生まれた病院だった。
だから看護婦さんに顔を見られてはまずいと思って逃げ出した。
そのあと、雪弥は残って看護婦さんに聞いたのだという。
彼を知っているんですか?
たぶん、水島春一君よね、知っているわ、あの子はここで生まれたのだから

一瞬つきぬけるような身震いをこらえて、雪弥は病院から出てきたのだ。
俺のために、平静を装って。

「でも、鏡子さんの弟だということをどうして隠すのか分かりませんでした」
「それが、こういう結果だなんて思ってなかったでしょ」

雪弥は目を伏せると、きゅっと握りこぶしを握りなおした。

「はるいち君が、あたしを呼び出したのにも、理由があるんじゃないですか?」
「え?」
「はるいち君があたしを脅そうと思って呼び出したのも、何かありましたよね」
「…よくわかったね」

つないでいた手をそっと離す。
驚いた瞳の雪弥にそっと笑顔を投げかけて、俺は歩き出した。
君は優秀な獲物だよ、雪弥。

少年は、警察から逃げとおした。
姉の知恵か否か、ナイフからは指紋や証拠も検出されなかった。
恐れおののいていた数ヶ月は終わり、いつしか少年の脳裏にある思想が生まれる。
それは姉の死によって両親が離婚を決意した瞬間とほぼ同時だったといわれる。

もう俺には誰も愛すことなんてできない。
俺の永遠の姫君は、姉さんだ。
でも姉さんをきれいにしてあげることなく、殺してしまった。
それなのに俺は、姉さんを俺だけのものにしてしまった。
俺は、悪人だ。

母親の実家に帰り母親の姓である「葉月」を名乗った少年は、来る日も来る日もそのことばかりを考えた。
狂ったようなこの感情をとどめられずに、少年は夜の町を徘徊する。
道端には穢れきった少女たちがそこら中にはびこっている。
少年はまた、同じように穢れたまま自分のものにしてしまった姉を思い、罪悪感にとらわれる。
少年の犯してしまった罪は、あまりにも重かった。

俺は、悪人だ。

いつしか廃人と化していく自分に耐え切れず、少年は家を出た。
母親には心配をかけたくなくて、この1年間だけわかれた父親のところへ行くと言った。
少年の両親は娘の事件の傷をなめあうのが嫌だった、だから愛し合いながらも離婚した。
母親は彼を抱きしめて、いってらっしゃいと言った。
こっそり借りたぼろぼろのアパートでの生活が始まる。
学校はそれなりに楽しかったし、三流大学への進学も決まった。
やっと普通の生活を送れるようになったとき、少年の前にひとりの少女が現れた。
自らの屈辱をぬぐうためだけに生きていた、浅はかな少女だった。
しかし少女が背負うにはあまりにも大きな屈辱だった。

彼女も同じ罪人だと知ったとき、少年の、思考がはじまった。
この罪を背負った獲物を殺して、自分も死のう。
これが俺の、姉さんに捧げる生け贄になる。
つじつまの合わない少年の罪滅ぼしは、転がりだした。
葉月春一と宇佐美雪弥の出会いは、そうして幕を開けた。


「俺はね、雪弥を殺すつもりで近づいたんだ」

いつしか少女は少年の中でおおきくなっていく。
少女の重い瞳が、少女の笑顔が、すべて少年の中に根付く。
定めた永遠の姫君さえ超えて、どんどん、奥へ奥へと。
少女の痛みが、悲しみが、憤りが少年を貫いた。


「それなのに、俺は、誰よりも何よりも」


話しながら俺は泣いていた。
雪弥は静かにこちらを見ている。
そうしてまた、雪弥は歩き出した。
俺の方へ、真正面から。


「雪弥が、大好きだ」


雪弥は少しも臆せずに、俺を正面から抱きしめた。
髪の毛から、またシャンプーの香りがした。
俺はあたたかい雪弥の体を、そっと抱きしめた。
雪弥はまた泣いていた。
あたたかい、あたたかい涙だった。



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